親の世代
誕生日はサプライズの連続でした。
目隠しをされながら(上記の写真のごとく)
色々な所に連れ回してくれました。
そんな中で母親から電話がありました。
『いっちゃん、お誕生日おめでとう。いくつになったの?』
これが毎年恒例の電話での言葉です。
『今日はお祝いは何をしてもらったの?』
そして、一日のサプライズをお話しすると
『そう、それは良かったわね。こちらでは、夕ご飯を食べにいくぐらいだけど』
と母が言いました。
そして、ふと彼女の事を考えました。
私の母親が生まれた時、非日常である第二次世界対戦が始まった頃でした。
命からがらに生き延びてた終戦において、一夜にしてガラリと教育制度や思想が変わった事に驚きながらも、彼女は成長して行ったんだと思います。
そして、高度成長期に入ると
父親は、仕事にでかけ、母親は専業主婦。
子供は妻の見る事であり、旦那は仕事に精を出す。
という社会的な暗黙の了解に飲まれながら
20代に一人で兄や姉を育てたんだと思います。
核家族が出来始めたときだったので
母親は自分の実家から離れて、育児はその頃に流行った週刊誌をみながらだったといっていました。
『赤ちゃんを元気にする育児法-せんべい法』
というのをやっていたそうです。
真冬の寒い日に、座布団の上に赤ちゃんをね転がせて
30分おきにひっくり返す。
まさしくせんべいを焼くのと同じ様にしていたら
赤ちゃんの免疫があがるとその雑誌には書いてあったみたい。
今聞くと、アホかと思うけど
それを馬鹿丁寧に信じる程、彼女には誰も育児において頼る人がいなかったんだと思います。
『あなたのお兄ちゃんはよく風邪を引いていたけど、 きっとせんべい法が合ってなかったのね』だって。
どこまで情報雑誌に左右されてるんだか。
全ての家庭内を任されて、それでも自分一人では解決出来ない問題に直面したその夜、重い口を開けて父親に助けを求めた時、
父親は緊急の電話で仕事場に向かいました。
『自分の仕事相手と自分の子供のどっちが大事なの!』と
泣きながら、父が夜、仕事相手の所に行く車を追いかけたと
いってました。
悔しかっただろう。
唯一子供を共有出来る父親にも頼れずにいた彼女。
あの頃の女性は、女性としてと言うよりも
一人の戦士として、切り盛りをして来たんだと思います。
そして、弱音なんて許されなかった。
自分の母親(私のおばあちゃん)も戦争で旦那と離ればなれになって、子供の命を守る為に生き延びている姿を見て来たから。
私の父親も、自分の父が(私にとってのおじいちゃん)が
3歳の時に亡くなって自分の父親像を知らないまま、父親になった。
母親が8人の子供を一人で切り盛りする姿を見ているから
それが当然の事だと思ったのかもしれない。
旦那さんに甘える、、、なんて、考えもしなかったのかも。
だから、よく幼いながらに覚えているのは、彼女が掃除機をかけながら掃除機の音に混じって独り言を言っていました。
『ちくしょー』とか『なんでよ』とか。
掃除機の音に混じりながら、一人で消化していたんだと思います。
その一方で
クライアントさんからよく
『女は辛いわよ』
とか
『オトコなんてろくでもないわよ』
とか
『オトコに頼らずとも自分で手に職をつけなさい』
とか
『オトコなんて当てにならないわよ。』
とか
色々な言葉を母親から聞いて来たお話を聞きます。
だから、頑張らなくちゃと。
だから、一生懸命働かなくちゃと。
娘ながらに思った事でしょう。
アルファな女性の誕生です。
そして、私自身のクライアントさんは、ほとんど婦人科系でお越しになるので、子宮とのつながりを感じずにはいられません。
今、私は子宮を通じて、女性性の話をしているけれども
これは、子宮の仕組みを勉強したから、本来女性はこうなんだなーと感じる事。
骨盤内の仕組みや神経やホルモンの作用を考えて
本来女性はこういう風に生きていく事が動物学的には発達して来たんだなと思うからであって、世代間的に学んだ事ではありません。
今、女性性を取戻す様な運動があちらこちらで起きています。
色んなヒーリングもあります。
きっと、戦争によってねじ曲がった考え方を正す時に
来ているのかもしれないなーなんて。
まあ、戦争前がどんな時代だったかは知らないですけど。
本来の私たちは、男性と女性が調和しながら
お互いの持っている長所を出し合い協力し合いハーモニーを奏でる上で生活をして行く事が出来たら良いんだろうなーと。
そう考えると、一度母親の生き方を否定するわけではないけど、
見直す必要はあるみたい。
彼女の生きてきたサバイバル法が、
男女協調の生き方に当てはまるわけではないのかもしれないから。
それは、お母さんが頑張って辛い中生きてきた事を繰り返すのではなく、教訓として新しいもっと楽な生き方に変換して行く事で、彼女達の辛さを昇天出来るのかなと思いました。
だから、お母さんの言葉に縛られるのではなく
紐を解いてあげる方が、お互いにその時期を消化出来ていいのかもしれない。
それが反抗期なのかもしれない。
母親とは違う生き方を選択する。
それがもしかしたら、エネルギー的に見る親孝行なのかもしれない。
だから、
”これをしたらお母さんからとやかく言われるかもしれない。”
と言う事をやってみる方が親孝行なのかも。
違う生き方を見せてあげる事。
そして、それで幸せになっていく事で、きっと何かを親も学ぶのかもしれないから。
『色々とやってもらって、いいね』
と母親の口から出て来た言葉。
『お母さんも一緒にやろう、今度』
そうやって、個人の見える世界は倍増して行くんだと思う。
誰かのいう通りに生きる事は、
1つの世界しか見えない。
だから、もしもこのブログを読んでくださっている方で
お母さんがこういうから、、、、と頭の中で反芻している方は
反抗期を迎えて、
お母さんの生き方と違う生き方を選択していいのだと
自分に許可をして欲しい。
IHのセッションで久しぶりに
『世代間にまつわるネガティブな信念体系』
が出て来たことと、母親の電話で感じてみました。
モノクロから虹色へ