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サグラダファミリアのギャップ


バルセロナに行ったら、やはりサグラダファミリアでしょう

そう思って朝からツアーに参加し、サグラダファミリアを見ました。

ガウディーすげええええええええ

もうそれしか出てこない。

その他にも、

バルセロナのオリンピックの場所を見たり、ピカソ美術館を見たり、

ユダヤ人が隠れていた場所を見たり。

今回の滞在はホテルではなく、地元の人と触れ合う為に人の家に泊まりました。

そこで出会った滞在先のジョセフ。

僕はスペイン人ではない。キャタロニアンだ!と。

バルセロナはスペインから独立すべきだ!と情熱的に語っていました。

そうバルセロナをこよなく愛する偏見の凄い男性でした。

そんな中、ユダヤ人の話になりました。

その昔、バルセロナにユダヤ人が住んでいました。

ある日、キリスト教が押し寄せて来て、

『キリスト教じゃないと殺す!』って言われて

キリスト教の振りをして、

家の中ではユダヤの教えを守っていた家族がいたとのこと。

外身はキリスト教だけど、中身はユダヤ教。

いつか見つかるかもしれない、殺されるかもしれないという不安感。

ユダヤ教なのにキリスト教と偽る自分に対する罪悪感。

私のクライアントさんには、ユダヤ教の方が沢山。

先日のトピックは

自分を犠牲にして、他の人に尽くす事であり

犠牲を美徳とする信念からくる苦しみパターンでした。

”私がここまで我慢しているのだから、あなたも我慢するわよね。”

って。

あれ?

なんかこれ、知ってるぜ。この呪縛っぽい言葉、なんか知ってる。

自己犠牲=愛

多分、これ、戦争中とか命の危機の時には、犠牲となる事が必要で

その行為自体が、愛を示す事があったんだと思う。

でも、もうこんなに豊かな世の中になって、

少なくとも私のクライアントのユダヤ人の人は全員あり得ない程の大金持ちで

自分はこんな事をしていきたいんだ!って

大きく言える時代を謳歌して世界の経済を動かしている様に見える。

それでも、

その命の危機の時代の”自己犠牲が愛”って言うメンタルのみが残って生きているって、

時代錯誤も甚だしいよね?

それがサバイバルプログラムとして残っている事は明らかで。

ストレスとは、潜在意識と顕在意識のギャップの中に存在する。

顕在意識の現実で『これをしたいー』って思う一方で

潜在意識の昔のパターンで『自己犠牲をしなはれ』っていうギャップ。

そして、「それを整えようぜ、ベイビー」って言われている今の時代。

『自己愛』って呼ばれてる。

自己愛を叫んだキリストの教え。

結局は、『自己愛を殺す』様に脅迫的にキリスト教を布教されるって、

このギャップもジーザスにとっては、ストレスなんだろうね。

可哀想に、ジーザス。

人ってそのギャップの中で生きている。

そのギャップをいかに無くして行くかが、もしかしたら成長と呼ばれるのかもしれない

そんな事を考えていたら、

滞在先のバルセロナをこよなく愛するジョセフもギャップを見せてきた最終日。

『サグラダファミリアはスペイン人にやらせると、一生終わらない。

 だからこんなに時間がかかっているんだ。

 日本人にやらせたら、多分2日で終わるんちゃう?』

だって。

あんなにバルセロナに情熱を持っていたくせに、そこでスペイン人、見下すんかい!

ギャップは、人につきものなのかもしれない。

私はギャップだらけだ。自己愛と自己犠牲の波を行ったり来たり。

ヒーリングに携わっているけど、

私がしている事は教祖様がするようなことではない。

単純にクライアントさんのカラダ(潜在意識)が何を伝えたいのかを

筋肉を伝って拾って行く作業。

だから、私も一緒に癒され、同じく普段の生活で溺れる事しばしば。

それでも昔に比べたら、沢山剥がして来たけど、まだまだギャップの波に飲まれてる。

あっぷあっぷでござる。

『私がここまでしているんだから、あなたも我慢出来るわよね。』

この呪縛を解いてくれって次に続くのだ。

モノクロから虹色へ

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